真泊-那覇 荷客運送船運航1912

1912 大正元年 

 マーラン船の出入りする真謝泊と並んで、小型船の出入りする漁港に使われていた真泊に石油発動機の荷客運送船も那覇からくるようになり、儀間の他に真泊も那覇への窓口(船着場)となった。
仲里村誌



マーラン船
 琉球の伝統的な船に「マーラン船」と呼ばれる船があり、琉球の島々および日本との輸送に使われてきた。
マーラン船(馬艦船)は、十八世紀初めごろ、中国の福建地方から伝わったジャンク船を沖縄の海に適するよう改良を重ねた帆船。中国で、「マーラン」を「錨纜」と漢字で書くが、沖縄では、馬のように船脚が軽く、大きな船を意味 する「馬艦」と表記している。
また、マーラン船の建造技術は、1372年から1830年の間に明、清との進貢貿易に使われた「進貢船」の影響をかなり受けていると考えられている。進貢船は当初は中国で建造され琉球に与えられたものであるが、1557年ごろには明により許可され、琉球で唐船が建造されたという資料も残されている。
マーラン船は時には「山原船」とも呼ばれることがある。ヤンバルから薪を運び、本島北部と中南部を往来し生活物資の運送を担っていたが、ヤンバル路の整備が進み、輸送は陸路に変わり1956年を最後にその船は姿を消した。マーラン船と同じ構造だが、それを小型化したものであり、大きさで区別していたようだ。

真泊-那覇 荷客運送船運航1912


真謝泊(マジャドゥマイ)
真謝北海岸のアダンやモクマオウが群生している。その奥に船が停泊できる港がある。この場所を泊小(トゥマイグヮー)と呼び大海原につながる。トゥマイグヮーは1759年(宝暦9年)宇根親雲上潔時が地頭代に就任したころ避難場所として掘られた人工的な港である。
そのトゥマイグヮーの外側にある入り江になった部分を真謝泊と呼んでいる。
1756年(乾隆21年) 旧暦6月24日 尚穆王の冊封使全魁、周煌らを乗せた冊封船2隻が真謝沖にて台風で座礁、遭難し一行200余名が島民に無事救助された重要な場所である。
昔「真謝泊こがね口」と唄われていた真謝泊は、那覇往還の要港であった。しかし現在では船の出入りにおいて、自然条件に恵まれた良港とは言えない場所である。
参考:久米島の地名と民俗

真泊-那覇 荷客運送船運航1912
現在の真謝泊 撮影2013年12月20日

真泊-那覇 荷客運送船運航1912
現在の泊小 撮影2013年12月20日



真泊-那覇 荷客運送船運航1912
1702年に完成した元禄国絵図に示された久米島
黄色く囲まれた「中城間切 千九百参拾壱石(中城は仲里の旧名称)」が記載され、黒い丸(●●)で示された一里塚が見えます。赤い線は当時の道で、具志川間切から島の中央を通って中城間切から島尻へ至る。中城間切の北側には入江がみえて「間ちゃ(真謝)入江」とし示され、船の航路を示す赤い線が「真謝入江」と「兼城湊」の2つの港にひかれていて2港が久米島の玄関口であることを示しています。

真泊-那覇 荷客運送船運航1912
久米島北東部 美崎地区拡大
真謝泊の北には阿嘉黒石(くるし)の大岩が1つ描かれている。宇根あたりには大きな川があり干潟ができてます。真泊に東側は岩壁で、イチュンザ周辺の岩礁や奥武島、オーハ島はほぼ正確に描かれています。

元禄国絵図
江戸幕府の命で、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの地図が作成されました。 このうち元禄国絵図は、元禄9年(1696)その作成が命じられ、同15年(1702)までにほぼ全国の分が完成したといわれています。1里を6寸とする縮尺(約21,600分の1)で、山、川、道路等が描かれ、街道を挟む形で描かれている黒丸は一里塚の表示です。郡別に色分けされた楕円形の枠内には村名と石高が、白四角で示された城下町には地名と城主の名前が記されています。



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